今日は読者の方からのご相談にお答えします。
相談者はクリスチャンですが、相談内容は誰にもあり得るものです。
どうぞ「自分ならどうするか」と考えながら読んでいただくと幸いです。
…………ここから相談本文…………
ありのパパ様、初めまして。ジュンと申します。
いつもブログを拝見させていただいて、そこからいろいろな気づきを与えられています。
ありがとうございます。
私は、ペンテコステ派のクリスチャンです。
夫もクリスチャンで子どもがいます。
ここ数年、子どもの問題をきっかけに夫婦関係や子育てに見直しを迫られました。
そのことを主任牧師に相談する中で自分に怒りのあること、内向的でAC傾向が高いことがわかってきました。
つい先日、ある方をひどく怒らせてしまいました。
謝罪したけれど、赦してはいただけませんでした。
さらに私の欠点を批判されてしまいました。
自分の謝罪に誠実さが足りなかったという思いと、とことん自分の欠点を非難された思いに引き裂かれ、だいぶ落ち込みました。
今は少しずつ立ち直ってきていますが、人を恨む気持ち、裁く気持ちはなかなか捨てられません。
神様にお委ねしたつもりでも、当人を前にすると下を向いてしまったりドキドキしてしまったり、普通には話せないままです。
私は今後どのようにその方と関わっていけばよいのでしょうか?
神様にお委ねすることと関係性を大事にすることについて教えていただけないでしょうか?
(特定されることを防ぐため、一部を改編しています)
…………ご相談はここまで…………
こんにちは、ジュンさん。
ご相談をくださり、ありがとうございます。
降ってわいたような災難だったのか、それとも起きるべくして起きたのかは別にして大変な思いをされましたね。
そのような中にあっても何とか乗り越え、また教訓を得ようとしておられる姿勢に敬意を表します。
1.謝っただけ上出来(じょうでき)
私ならトラブルが起きると「まだまだだな」と平気で相手のせいにしてしまいます(笑)。それに比べてジュンさんは相手に謝っておられます。
謝っているだけ上出来です。
では、謝ったにもかかわらず、なぜ相手は許してくれなかったのでしょうか?
その問題を考えることが大切です。
①赦罪の目的を相手から許されるところに置かない
分かりにくいことではありますが、赦罪する目的を相手からの許しを獲得することに置いてはなりません。なぜなら、許すかどうかは相手の問題だからです。
相手が許す準備がまだできていないかもしれないのに「許してください」と言えば、それは許すことを相手に強制することになります。
これでは相手が烈火のごとく怒り出すのは当然と言えます。
②赦罪の目的は遺憾の意を表すことにある
ではなぜ謝るのかと言えば、只々(ただただ)自分に足らないところがあったことを認めるためです。ここから前に出過ぎてはいけませんし、後退してもいけません。
このような場合の謝る秘訣はなるべく短時間で終わらせることです。
そして機会あるたびごとに遺憾の意を表します。
そのようにして、しばらくすると相手が「もう謝らなくて良いよ。あなたの気持ちは十分伝わったから」と言ってくださる日が必ずやってきます。
「そうなるまで根気づよく謝り続けることです」と言いたいところですが、そうではありません。
やはり、これも相手が許してくれることを目的にしていますから逆効果になります。
〇相手が許してくれるかどうかにかかわらず、遺憾の意を表し続けることが何より大事(だいじ)なことです。
2.人を恨む気持ち・裁く気持ちはなくならない
①ありのままの自分を受け入れる
このようなご相談を受けて私が本音のところで思うのは「赦せるんだったら、神様いらんがな」ということです。許せないからこそ、神様を信じたのではないでしょうか?
それがいつのまにか「人を赦して当然の自分」になっていないでしょうか?
②無力を認めることが信仰の前提
自分が無力であるのを認めることが、神に委ねる前提です。それは具体的には自分は相手を赦したり、裁かないでいることができないと認めることです。
③委ねた『つもり』はあくまで『つもり』だけ
私も委ねますが、翌朝起きるとまた自分の手元に戻ってきています。それで朝ごとに委ねます。
要するに一日単位で委ねる必要があるということです。
ジュンさんが委ねたと言うとき「私が委ねたと言ったら未来永劫委ねたのよ」と思っておられないでしょうか?
そのような「委ねる」は地上に存在しません。
地上生涯を送っている間は、コツコツと委ねていくほかはありません。
〇「今日一日だけ」「手放して、あとは神様にお任せ」